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SARNews No.35

SARNews_35

構造活性相関部会・ニュースレター<1October,2018>SARNewsNo.35「目次」/////Perspective/Retrospective/////抗体のNMR研究の趨向と展望加藤晃一、谷中冴子・・・1/////CuttingEdge/////抗体医薬品開発における質量分析技術尾山博章、内山進・・・8/////Activities/////<報告>構造活性フォーラム2018「創薬におけるビッグデータの活用とAI戦略」開催報告岡島伸之・・・16第11回薬物の分子設計と開発に関する日中合同シンポジウム開催報告赤松美紀・・・18<会告>第46回構造活性相関シンポジウム会告・・・19/////Perspective/Retrospective/////抗体のNMR研究の趨向と展望自然科学研究機構生命創成探究センター加藤晃一、谷中冴子1.はじめに:まずは回顧的な話から今から30年も前のことになるが、筆者の一人(加藤)は、薬学の博士論文のテーマとして、NMRを用いた抗体の高次構造研究を選んだ。(というより、それが研究室の実質的に唯一のテーマであった。)当時の指導教官であった荒田洋治教授は、多発性骨髄腫の患者由来のMタンパク質(単クローン性免疫グロブリン)やベンスジョーンズタンパク質(免疫グロブリン軽鎖)を対象にして、1次元1HNMR分光法を用いた抗体の構造研究に取り組んでいた。NMR分光法は、原理的には水溶液中における生体高分子の動的3次元構造を原子レベルの分解能で提供し得る。しかしながら、対象分子が大きくなるとピークの重なり合いと、個々のピークの線幅の増大が甚だしくなり、解析はおろか観測自体が困難となる。免疫グロブリンG(IgG)は分子量15万におよぶ高分子量タンパク質であるために、これをNMRの対象とすることは、かなりのチャレンジである。しかも、試料としていたIgGのアミノ酸配列はかならずしも明らかではなかった。普通に考えれば、こうした研究プロジェクトは無謀である。しかしながら、「アミノ酸配列がわからなければタンパク質の構造研究ができないなどというのは、凡人の言うことだ。」というのが指導教授の教えであった。幸い、加藤はアミノ酸配列が知れたマウスのモノクローナル抗体を題材にすることが許されたので、詳細な高次構造研究の道が開けたと思った。とはいえ、“分子量の壁”を克服しなければ抗体の構造研究は進展しない。本稿では、こうした経緯を踏まえて筆者らが取り組んできた、抗体のNMR研究がどのように進展し、抗体医薬の開発に活用し得るか、その動向と展望について述べる。2.鍵は安定同位体標識NMRによる抗体の分子量の壁を克服する手段は、試料の安定同位体標識である[1,2]。加藤が荒田研でまず取り組んだのは、抗体産生細胞の培養系を利用して抗体中の芳香族アミノ酸残基の特定の部位に重水素標識を施すアプローチである[3]。重水素標識により、1HNMRスペクトル中で余分なピークを消去すれば、残ったピークの観測が容易になるという発想に基づく。さらに、重水素に置き換えることにより1HNMRの主要な緩和の源となる磁気双極子-双極子相互作用は抑制されるので、残余のピークはシャープになり、いっそう観測しやすくなることが期待される。ただし、こうして観測された1HNMRピークが配列上何番目のアミノ酸残基に由来するのかという帰属を確定することはかならずしも容易ではない。その一方で、タンパク質主鎖に由来するNMR信号は配列特異的な帰属を実現し得る可能性が高い。加藤は、安定同位体標識技術を活用したタンパク質のNMR研究の第一人者である東京都立大学(当時)の甲斐荘正恒博士に相談し、アミノ酸選択的な主鎖カルボニル炭素の13C標識を抗体のNMR解析に応用することを試みた。幸いなことに、この試みは功を奏し、完全長のIgGを対象にしても個々のアミノ酸残基に由来する信号を観測可能であることが判明した[4]。カルボニル炭素がシャープな13Cピークを与えるのは主要な緩和の要因となる磁気双極子-双極子相互作用をもたらす1Hから隔絶しているためである。しかも観測されたピークを配列特異的に帰属することができることもわかった。帰属のやり方はここでは詳しく述べないが、原則的に1つのピークを帰属するのに数リットル規模の細胞培養を行うという、かなり手のかかる方法である。しかし、一度帰属の確定したシグナルは抗体の高次構造や相互作用に関する情報を原子レベルで提供する有用なプローブとなる。こうしたアプローチ法を開拓したことにより、加藤は兎にも角にも薬学博士の学位を取得することができた。ところで、なぜ安定同位体標識を行うのにもっと簡単なシステムを使わなかったのかという疑問を呈する読者もおられるかもしれない。例えば、大腸菌を13C標識グルコースと15N標識アンモニウム塩から構成される最少培地で培養すれば、タンパク質の全ての炭素を13Cで全ての窒素を15Nで一様に標識することが可能である。そうすれば、多次元3重共鳴NMR計測によって系統的な信号帰属の道も開かれる。ただし、大腸菌で発現した組換えタンパク質は糖鎖修飾を受けていないいわば裸のタンパク質である。IgGはFc領域に1対のN型糖鎖の結合部位(Asn297)を保存した典型的な糖タンパク質である。しかも、これらの糖鎖はIgGが補体やFcγ受容体(FcγR)との相互作用を通じたエフェクター機能の発動に不可欠な役割を担っている。すなわち、Fcから糖鎖を取り除くとIgGのエフェクター機能は失われてしまう。したがって、抗体の機能発現メカニズムを探究する上で糖鎖の存在を無視することはできない。実際、糖鎖を除去すると、FcγRの結合部位にあたるヒンジ領域およびその近傍の立体構造が崩れることがNMRを用いた解析から明らかとなった[5]。このように、培養動物細胞を利用した抗体産生系を当初から用いていたことは、後にエフェクター機能発動における糖鎖の役割を分子構造論の観点から理解するうえで大いに役に立っている。動物細胞は大腸菌のような最少培地で育てることができないが、無血清培地中の炭素源と窒素源(すなわちグルコースやアミノ酸など)を全て安定同位体標識体に置き換えて細胞培養を行えば、ポリペプチド鎖も糖鎖も全て13Cと15Nで標識することが可能である。こうすることによってピークの帰属を確定したヒトIgGのFc領域の二次元NMRスペクトルを図1に示す。ちなみに、この帰属が確立したのは最近のことである[6]。図1.ヒトIgG-Fcの二次元NMRスペクトル動物細胞培養系を活用して15N,13C標識を施したヒトIgG1-Fcの1H−15NHSQCスペクトル。(引用文献6より改変して転載)動物細胞以外でも、真核細胞を利用すれば糖鎖修飾を受けた抗体を発現することは可能である。実際、植物や昆虫を用いた抗体の産生系が作り出されている。ただし、糖鎖修飾は生物種に特徴的であるので、これらの産生系を使って作り出した抗体の糖鎖は、ヒト抗体の糖鎖とは明確に異なっている。筆者のグループではタバコやカイコで発現した抗体に代謝的に安定同位体標識する方法も確立しており、糖鎖修飾の差異がFc領域の高次構造に及ぼす影響を検出することができている[7]。NMRを用いたこうした方法は、抗体医薬品の評価等に活用できるものと考えている。ここまで高分子量タンパク質を対象としたNMR戦略として13Cおよび15N標識による観測シグナルの感度向上、重水素標識による不要シグナルの消去と残余シグナルの先鋭化をアミノ酸選択的に行うことの有効性を述べてきた。これら2つの長所を組み合わせることにより、抗体のNMRの可能性は一層広がる。図2は、ロイシン残基のメチル基を選択的に13C標識した完全長IgGの二次元NMRスペクトルである。適切な重水素標識を組み合わせることにより、この抗体中に存在する42個の非等価なロイシン残基のメチル基由来のシグナルが全て観測されている[8]。こうしたプローブの活用例については後ほど述べる。図2.マウスIgGのメチルTROSYスペクトル(A)[δ2-13C]ロイシン、(B)[δ2-13C;Hα,Hβ,Hγ,Hδ1–2H7]ロイシン、(C)[δ2-13C;Hα,Hβ,Hγ,Hδ1–2H7]ロイシンと[2H7]グルコースで代謝標識したマウスIgG2b。(D)[δ2-13C;Hα,Hβ,Hγ,Hδ1–2H7]ロイシンと[2H7]グルコースで標識したマウスIgG2bより単離したFab(オレンジ)とFc(青)。(引用文献8より転載)3.NMRで見る抗体分子のダイナミクスNMRの特長は何と言っても生体高分子のダイナミックな構造情報をもたらす点である。例えば、一般に抗体分子の柔構造の源と考えられているヒンジ領域が、実際には柔軟な部分と堅固な部分が交互に連なったモザイク構造を有していることがNMRの緩和解析から明らかとなっている。さらに、Fab部分が多価の抗原で架橋され固定されてもFc部分は運動性を保っていることもNMR解析の結果より明らかとなっている[1]。Fc領域の内部運動はどうであろうか。先に、Fcに結合している糖鎖が抗体のエフェクター機能に不可欠であると述べたが、この糖鎖の根本にあるフコース残基だけを取り除くとFcγRIIIに対する親和性が高まり、抗体依存性細胞性細胞傷害活性(ADCC)が劇的に向上する[9]。これはポテリジェント技術として抗体医薬に実装されている。筆者らの構造生物学的研究によって、そのメカニズムは明らかとなりつつある。FcとFcγRIIIの間の相互作用はタンパク質部分の間の相互作用に加えて両者の糖鎖同士の相互作用が寄与しており、フコースは立体障害によって糖鎖同士の相互作用を妨げるのである[10]。さらに、フコースは近傍のチロシン残基(Tyr296)の芳香環と分子内で相互作用していることがNMR解析の結果からみてとれる(図3)。このチロシン残基はFcγRIIIとの結合に与っているので、これがフコースと分子内で相互作用していることはFcγRIIIとの相互作用、ひいてはADCC活性に不利に働く。これが現時点での筆者らの見解であり、分子動力学(MD)計算の結果もこれを支持している[11]。MD計算の結果は、これらタンパク質の糖鎖やアミノ酸残基側鎖が水溶液中でダイナミックに揺動していることも示している。今後、こうした構造揺らぎを実験的に定量的に評価するうえでもNMRはますます重要な役割を果たすものと期待される。図3.ヒトIgG-Fcの分子内相互作用のダイナミクス(A)糖鎖を13C標識したヒトIgG1-Fcの二次元HSQC-NOESYスペクトル。抗体のTyr296とフコース残基は近接し、NOEが観測される。(B)Fcの結晶構造中におけるTyr296(青)とフコース残基(赤)。(C)[15N]チロシンを用いて標識したヒトIgG1のフコシル化Fc(赤)と非フコシル化Fc(黒)の1H-15NHSQCスペクトル。非フコシル化FcのTyr296ピークは化学シフト変化とともに化学交換に由来する強度減弱が見られる。(引用文献7より転載)抗体の構造揺らぎを評価することによって、その機能向上をタンパク質工学的に実現することも可能である。天然型の抗体は、必ずしも高親和性かつ高選択性であるとは限らない。そのため、薬効の高い抗体医薬を作製できる合理的な設計法が求められているが、現状ではそうした方法論は開発途上である。抗原-抗体相互作用は、本来は動的で複雑な過程を経るが、従来の抗体の機能改変は静的な結晶構造がもたらす情報に依存している部分が大きい。NMRのもたらす動的な構造情報は抗体の高機能化を目的とする分子設計に貴重な情報をもたらすに違いない。荒田研究室では、嶋田一夫博士が中心となって抗体の超可変ループのコンフォメーションの揺らぎが抗原認識に密接に関わっていることを示してきた[1]。最近、筆者の一人である谷中は、抗体分子中で抗原とのコンタクトに直接与らない部位の動的性質に着目して、その制御によって抗体の抗原親和性を向上するアプローチ法を開拓している[12]。そのために、抗リゾチーム抗体HyHEL-10の可変領域フラグメント(Fv)をモデルとして緩和分散法を用いたNMR解析を行った。この方法は、タンパク質の分子認識に関わるマイクロ秒〜ミリ秒オーダーの分子構造動態に関する情報を提供することができる(図4)。緩和分散解析の結果、抗原と結合する前の状態ではHyHEL-10の可変領域の立体構造は広範囲に渡って大きく揺らいでいるのに対し、リゾチームとの複合体を形成した状態ではこうした揺らぎが抑えられているということが明らかになった。そこで、抗原結合前の状態の揺らぎを抑えて結合後の状態に近づけることで、親和性を向上させることができないかというのが谷中の着想である。揺らぎの程度を反映する化学交換に由来する緩和速度(Rex)を指標とし、超可変領域以外に位置し、なおかつ嵩高い側鎖を持つアミノ酸残基の中で大きなRexを示した残基をアラニンに置換することで、揺らぎを抑える方針を取った。最終的に、揺らぎの度合いが大きかった32残基の中から10残基を選出してアラニン置換を導入した結果、2つの変異体で親和性の向上がみとめられた。それらの変異体についてRexを計測したところ、いずれもVHドメインの構造揺らぎが顕著に低下していた。この結果は、抗体分子中で抗原結合に直接関わらない部位に変異を導入することを通じて抗原認識部位の揺らぎを制御し、これにより抗原に対する親和性を向上させ得ることを示すものである。図4.緩和分散法を用いた抗体の親和性向上図左上:緩和分散測定のためのパルス系列の概略図左下:化学交換を示すピークの緩和プロファイル図中央:抗原非存在下におけるHyHEL-10のFvのRexのマッピング図右:野生型およびリゾチームに対する親和性を高めた変異型HyHEL-10のFvの等温滴定型カロリメトリーによる親和性の評価(引用文献12より改変して転載)4.血清環境における抗体間相互作用の解析液性免疫という言葉に端的に示されるように、抗体が機能する主な舞台は血液中である。分子が混み合った血中環境では、様々なタンパク質同士が衝突しあい、希釈溶液中では無視されてきた弱い相互作用が増強される。このような非特異的相互作用は抗体医薬をはじめとするバイオ医薬品を設計開発する際に考慮すべき要因となる。しかしながら、抗体の構造機能研究あるいは抗体医薬の開発において、血中環境と希釈溶液中での相互作用の違いにはこれまであまり目が向けられてこなかった。筆者らは、血中の混み合い環境での抗体と血中因子との特異的あるいは非特異的な相互作用を明らかにするための第一歩として、血清環境中における抗体の分子間相互作用を、安定同位体標識を活用したNMR法を利用して探査するアプローチ法を開拓しつつある[8,13]。部位特異的に重水素と13Cで標識したマウスIgGを用いて、ヒト血清中でのシグナルを観測したところ、FabとFc双方に由来する多くのシグナルにピーク強度の減弱がみとめられた(図5)。このことは、マウスIgGが血清中の成分と何らかの相互作用をしていることを意味する。血清中の主要なタンパク質成分はアルブミンとポリクローナルIgGである。そこで、これらの血清タンパク質と安定同位体標識IgGとの相互作用を検討したところ、IgGは血清中のポリクローナルIgGのFab領域と相互作用することが明らかとなった。これらの結果は、特定の抗原によって感作されていない血液環境においても、内在するポリクローナルIgGによってマウスIgGが認識されることを意味する。特に、ピーク強度の減弱がFab領域に由来する信号に顕著であったことは興味深い。当然のことながら同様の実験はヒト化抗体や完全ヒト抗体を対象にしても実施可能である。血清タンパク質との相互作用は、抗体が抗原やエフェクター分子との結合に対しても影響を与えることは十分に考えられる。図5.血液環境下でのマウスIgGのスペクトル変化黒は緩衝溶液中でのマウスIgG2bのメチルTROSYスペクトル。(A)赤はヒト血清中でのマウスIgG2bのスペクトル。アスタリスクは血清に由来する成分を示している。(B)赤はヒト血清由来のポリクローナルIgG-Fab存在下でのマウスIgG2bのスペクトル。(引用文献8より転載)5.おわりに本稿で述べたように、安定同位体標識を基軸としたNMR計測によって抗体の高次構造と相互作用を詳細に解析することが可能となった。抗体の抗原認識とFcγRとの結合はいずれも水溶液中における抗体の構造ダイナミクスが深く関わっている。これらの機能はいずれも複数のドメインの協働によって実現されている。さらに抗体の分子全体を広げて見れば、異物の認識を契機としてエフェクター機能の発動へと連なる過程は多数のドメインと糖鎖から構築される柔構造を舞台として進展していることがみてとれる。抗体の柔構造の裡に張り巡らされた隠されたネットワークを焙り出すことは、タンパク質工学的発想に基づく抗体の機能改変の新たな指針を提供するであろう。そこではNMRが一層重要な役割を演じるはずである。とりわけ、中性子小角散乱や高速原子間力顕微鏡など現在活発な発展を遂げている分子構造動態の計測技術とNMR分光法との統合がバイオ医薬品の開発において革新的な情報をもたらすことが期待される。さらに、本研究で開発した夾雑不均一系を対象にしたNMR観測手法は、バイオ医薬品の評価や血中環境での機能発現の実態解明に向けて様々な応用展開が期待される。血清環境は生理的状態や病態・病歴によって変動し得るので、患者によって異なるものと思われる。このような複雑な多成分系を対象にしたNMR解析を行うには、アミノ酸配列が不明のままタンパク質の構造研究を敢行するようなセンスが必要なのかもしれない。こうしたアプローチ法が成熟すれば、テーラーメード化を志向したバイオ医薬品の次世代化の展望が開けるであろう。